子どもを賢くする秘訣
頭がよくなるために立派な参考書や高額な指導者が必要ならば、昔の人はみんな頭が悪かったことになる。しかしいつの時代にも頭の良い人は存在した。彼らはいったいどのようにして勉強し、賢人となったのだろうか。
先輩の残した教本を書写し、先生の教えをよく聞き、蛍の光や雪による月明かりの照り返しで夜中も勉学に励み、自然を師と仰いで日夜学んだからであろう。学習に必要なのはまさにそういうものであり、それは個人の裕福さや社会の豊かさとは何の関係もないのである。
「年収が高い家庭の子どもほど成績がよい」のではない。事実は全く逆で、「年収が高い家庭ほど子どもを、月謝の高い塾に入れられる」ってだけなのだ。そして、工夫次第では塾代や教育費は抑えられるのに、みな盲目的に「教育には高いお金がかかる」と思い込んでいるにすぎない。
大手塾では、無駄な教材や無駄なオプション講座や無駄な夏合宿などを受講させる。「おわってみたらテキスト真っ白」なんてことも珍しくないはずだ。そういうムダがつもり積もって高い教育費にいきついている。
少子化の影響で生徒数の目減りが激しく、一人からより多くのお金をいただかないと、塾の経営が成り立っていかないという事情があるからだ。斜陽産業と言われて久しい塾業界だが、20年も生きながらえてこれたのは、企業側の「搾取」とも言える状況があるからに他ならない。
お金を使わずとも、工夫次第でいくらでも賢くなれる。逆にきちんと作戦を練らないと、いくらお金をつぎ込んでも学力は上がらない。そして学力というのは「上がるタイミング」というものも存在する。タイミングがずれているのに時間やお金や労力をつぎ込んでも、上がらないものは上がらない。まずは親が賢くなることが、子どもを賢くする秘訣といえそうだ。
1つ1つに重みを感じる。サジェスチョンがその人の人生を変える。
一挙手一投足がその人の生き方に影響を与えるかもしれない。
~勉強は何のために役立つのか~
勉強することで、「批判的思考力」を養う。
勉強する目的は、何なのでしょうか?
知識を増やす。論理的思考力を身につける。
もちろん、それらも大きな目的です。ではなぜそれらの力を身につけるのでしょう。それは、「批判的に考える力」を身につけるためです。
学校教育において、高校レベルになれば、与えられた情報を鵜呑みにせず批判的な視点を養うことが大きな目標となっているのです。
惑わされないためのスキルとしての、「批判的思考力」
批判的思考力は、近年声高に叫ばれている「コミュニケーション能力」にとっても重要な意味を持ちます。時には、故意に主張を誘導しようとする人がいます。
「ゲームを日常的にする子供と、しない子供を比較したところ、日常的にする子供の方が、コミュニケーション能力が低い子供の割合が多かった。だから、ゲームは、子供のコミュニケーション能力を低下させる」
一見もっともな主張に見えます。しかし、よく考えてみてください。「もともと人付き合いが苦手な子供が、一人でゲームする」という可能性はないのでしょうか?
批判的な視点をもてば、相手が故意に結論を誘導しようとしたとしてもそれに流されずに、物事の本質が見えるようになるのです。
世の中には、巧妙な言葉の嘘、トリックが溢れています。
もっともらしいデータを示して、言葉たくみに相手を自分の意見に同調させようとする。それに対する防衛策としても、「鵜呑みにしない」という批判的思考力が求められているのです。
勉強する意味を見出せなくなったときは、「批判的思考力」を身につけるということを思い返してみてはいかがでしょうか。
勉強するという事は騙されないようにすること
論理的思考力《算数力》
将来、大人になったら、答えのない難しい問題になんども直面するでしょう。経験からヒントを得られればよいですが、そうでない場合、論理的に順序だてて、解決に向かう道筋を立てなくてはいけません。そのベースとなるのが、小学生の算数です。
小学生のうちに、なるべく多くの公式と文章題に触れ、知識をたくわえ、問題と結びつけて解決法を考える。一体どうしたらいいかわからない状態から、推理し、分解し、発想し、もてる知識を呼び起こして結びつける。図や線分図などで具体化し洞察する。
知識というガソリンを蓄えてどの道を行こうか推理し目的地にたどり着く。一時、文科省教育審議会の答申に、『知識より知恵』というものがありました。なにをバカなことをと思ったものです。知識という燃料がなくては、長い人生という高速道路を、ガス欠せずに駆け抜けることは不可能です。
審議官って、おバカの集まりなんじゃないのと思いました。
「問題を作った人には、答えが分かっている。必ず答えがあると保証された問題を解くのは、そこに見えている頂上へ向かって、ガイド付きの登山道を、ハイキングするようなものだよ。数学の真理は、道なき道の果てに、誰にも知られずにそっと潜んでいる。」
数字と向き合う謙虚さと、真実を見出す大切さが大切です。算数が単なる計算作業ではつまらない。子どもたちにも数字が持つ面白さや、不思議さを感じてほしい。指導者として子どもたちに、学習意欲を目覚めさせる後押しをしたいと思います。
算数は、意外と【数学より難しい】
小学生の勉強の大切さ
一般的に中学の学習内容は小学校の学習を前提にしていますので、中学の教科書は小学校で学ぶ基本事項にあまり触れずに、その応用で始まります。そこで具体的に実際の例で見てみたいと思います。
中1になった最初の頃に学ぶもの
中1の最初に、「計算の仕方」で出てきたものが「分配法則」、「結合法則」と言う名前ですと知らされます。そして特に基本を理解し十分に慣れるという時間もなく、この法則を使って正負の数や文字式を扱うことから始まります。
結果的に理解力の良い子供ですと、この法則の意味をすぐ理解し、正負の数や文字式の計算でも使い始められますが、それができない子供も少なくありません。これらが使えるという前提で、次に方程式に進み、やがて関数へと進んでいきます。数学が分からない、苦手という子供が出てきても不思議ではないと思います。
このように、小学校の学習内容は中学の勉強に密接に繋がっていますが、中学入学後にいきなり躓いてしまうと、高校入試も厳しくなってきます。
さらに、連立方程式、展開、因数分解へとつながり、二次方程式、二次関数へと発展して行きます。高校入試で必ず出題されるものばかりです。これらが全て小学校からの積みあげになっているということになります。
中学で扱う応用から克服するのは決して簡単ではありません。反抗期と言う難しい時期にある中学生にとって、「できないからつまらない」、「自信がなくなる」、「学校で引け目を感じる」という状態になると、自己をどう確立するか、高校進学や将来をどう考えるか、難しい状況になって行きます。
だからこそ、小学校のうちからきちんと学んでおくこと、そして学習習慣だけでなく学習内容も、とても大切なものとなります。
「解法わかるからいいや」という子に解かせると、たいてい計算ミスをする。
「わかる」と「とける」は別物。わかるは頭、とけるは体。
『勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし』
野村克也さんが、よく口にしていた言葉であるが、要は、「まぐれで勝つことはあっても、まぐれで負けることはない。
負ける時には、負けるだけの原因・理由が必ずある」ということである。
例えば、入試を受け終わって、「できた!」「受かった!」と思ったのに、結果が不合格だった場合、なかなかその結果を受け入れられないかもしれない。採点ミスなんじゃないか?とか、名前を書き忘れたのか?とか、そんなことも考えてしまうかもしれない。
でも、後々発表された解答で確認してみたら、計算ミスや、問題の読み違いのオンパレードだった…とか。皆さんが想像しているより、はるかに多い。
(実際、生徒が入試から持ち帰った問題用紙には、その子が問題を解く際に使った式や筆算が残っているが、それを見たときに、生徒の「できた!」という感触とのズレを感じることは多い。)
「できた!」と自画自賛したくなる、ちょっと浮ついた状態は、思っている以上に危険なので、そう思ったときほど、冷静かつ謙虚に、見直しや解き直しをすべきであったということです。
傷口に塩を塗り込むような真似をしたいわけではない。結果が伴わなければ、それに向き合うことで、反省や改善ができて、今後の人生にいかせるという利点があるが、逆に「不思議の勝ち」を収めてしまった場合に目が曇ってしまうこと、真実が覆い隠されてしまうことを危惧している。
志望校、特に第一志望校に合格すると、受験勉強がうまくいったかのように思う可能性は高い。それが成功例として記憶されて、他者にも当てはめようとするかもしれない。
きちんと結果を出せた人に対して、第三者がマイナスなことを言う必要などないのだけれど、当の本人は、たまたまかもしれない。運が良かっただけかもしれない。少なくとも、自分には合っていたけれど、他の人には合わないかもしれない。
勝って驕ってはいけないし、それを人に押し付けるのもよくない。同じことをやってうまくいくとも限らない。そういう謙虚さが必要だと思う。
と言いながら、「不思議の勝ち」でも、まぐれでも何でもいいから、勝って欲しい!ということもあると思う。
これを繰り返してると合格はやってこない
「わかっていたはずなのに、解けなかった」
「わかったつもりになっていただけだった」
「時間配分をミスして、解けるはずのものが解けなかった」