総合し説明する力
いくつかのアプローチを複合的に組み合わせれば、大抵の問題は解決への緒が見えてきますが、まだ安心はできません。数学的であるとは論理的であるということであり、論理的であるとは誰でも理解ができるということですから、最後には自分が行ったプロセスを総合し順序よく説明する力が求められます。
東京大学が発表している「高等学校段階までの学習で身につけてほしいこと」をご紹介します。数学を学ぶ高校生に期待する力は、次の3つの力であると書いてあります。①数学的に思考する力、②数学的に表現する力、③総合的な数学力。
「数学的に表現する力」について言及されているところを引用します。
数学的に表現する力数学的に問題を解くことは,単に数式を用い,計算をして解答にたどり着くことではありません。どのような考え方に沿って問題を解決したかを,数学的に正しい表現を用いて論理的に説明することです。
総合し説明する力を磨くための最も直接的な訓練は証明を書くことです。ただし、証明は必ずしもエレガントである必要はありません。ハッと驚くような斬新な展開であるよりも、読む人に対する思いやりのある証明こそが、良い証明であると思います。
証明が苦手で何を書いたらいいかわからないという人は、読む人を先生(自分よりわかっている人)とは思わず、自分が教えてあげるつもりで書いてみてください。「あっ、ここは解の公式を使ったことがわからないかもしれないから、『解の公式より』と書いておいてあげよう」というスタンスで、書くのです。そうすれば、しっかりと「行間」が埋まった良い証明(少なくともわかりやすい証明)が書けます。
頭の中で、自分だけが理解している「正しいこと」は、その価値を十分に表しているとは言えません。数学的思考力を完成させるには、「証明の正しさ」をお互いに理解することです。その力を社会に役立てるためには、受け手を想像し、受け手に対する思いやりを持つことも必要であると私は思います。個別指導塾で説明する力を養ってください。
カール・フリードリヒ・ガウス
ガウスはドイツの数学者、天文学者、物理学者。彼の研究は広範囲におよんでおり、特に近代数学のほとんどの分野に影響を与えたと考えられています。ガウスは、「人類史上もっとも数学ができた人」と言われることもあります。
ガウスは言葉を満足に話せるようになる前から、計算ができたといわれています。彼がまだ3歳の頃、父親が職人達に支払う給料の計算をしていた時、彼は父親の計算が間違っていることを指摘しました。父親が驚いて計算をやり直したところ、息子が指摘した通りだったそうです。
小学生の時は、1から100までの数字をすべてを足してみよという課題に対し、1 + 100 = 101、2 + 99 = 101、…、50 + 51 = 101 となるので答えは 101×50 = 5050 だ、と即座に解答して教師を驚かせました。実際、算術の教師は彼の才能を見るにつけ、このような天才に自分が教えられることは何もないと言ったとか。
15歳の頃には、一日15分ずつの予備の時間を当てて1000個ずつの自然数にそれぞれ幾つの素数が現れるかを調べ、その次第に減っていく様子から、約100年後に証明されることになる『素数定理』を予想しました。
また、酒樽の体積を求めるにはそれをスライスした面の面積を調べて積み重ねればよい、という積分の概念にも自力で到達していたそうです。
【ガウスの名言】
・狭くとも、深くあれ。
・他の人でも私のように深く、絶えず数学的真理に没頭すれば、同様になることができるはずです。
・神は計算をされている。
ガウスもやはり『自然が持つ美しさ』を信じていたことが伺えます。
「円周率とは何か」と聞かれて「3.14です」は間違い
数学的に考えるとは何でしょうか。「たとえば円周率を聞かれて、3.14と答えるのは間違っている。数学とは『計算』ではなく『コトバ』を使う学問だからだ」と——。
"「円周率とは何か」を訊ねています。円周率の定義です。円周率の値を訊ねているわけではありません"
円周と直径の比であるという定義である必要性はないわけで、「円周率」という名称は誤解を招きます。このような呼び方をしているのは日中韓語とドイツ語(Kreiszahl=円周数)くらいで、他の多くの言語圏では単純に「π」(パイ)と呼びます。
円周率を半径ではなく直径と円周の比として定義された値を広めてしまったのは、数学記号の歴史の最大の失敗の一つです。半径で定義していれば、例えば「半径0.5の円の円周(0.5×2×π=π)」という自然な定義が可能でした。または、半径1の円の面積をπ(パイ)と定義する(1×1×π=π)やり方でも良いと思います。
数学とは何をする学問でしょうか。答えの多くに「計算」という表現が含まれています。数学の授業ではかなりの時間を計算に費やします。しかし、数学の主役は本当に「計算」なのでしょうか。答えはノーです。計算という行為は、作業です。
もし数学が計算することを主とする学問だとすると、「数学=作業」ということになってしまいます。どんなに数学が嫌いだった人でも、この結論には違和感を持つのではないでしょうか。数学の本質は「計算」ではないということです。「言葉の使い方を学ぶのなら国語では?」という疑問を持ったことでしょう。
数学もコトバの使い方を学ぶために勉強するものだと考えられます。
数学での抽象化と具体化の行き来
数学は抽象的な科目だと言われますが,それを意識したことはあるでしょうか?辞書には「いくつかの事物・表象から共通する性質を引き出し,それを一般化して思考するさま」とあります。
共通する性質を引き出す?一般化??思考するさま??? 読むだけで疲れます。具体的に数学の抽象化の例を挙げてみます。驚くほど,あっさりしています。
数学では,偶数(2で割って割り切れる数)をnを自然数として,2nと表します。これが抽象化です。たった2nと書いただけ。これでいいのです。(ちなみに2nは「2かけるn」のことです)抽象化を進めれば進めるほど,表現は単純になります。偶数と言って思い浮かべるのは,2とか10とか36とかだと思いますが,「思い浮かぶだけ,偶数を言ってごらん」と言われたら,終わりのない作業になります。偶数は無限にあるから・・・。
「偶数は2nと表現します」といえば,無限にある偶数を全部を一言でいったことになります。偶数の「2で割って割り切れるもの」という共通な性質を2nは過不足なく表現しているのです。
「抽象化→具体化の変換」 2nという表現において,nは自然数(ものを数えるときの数)なのだから,nを1にしてみます。nという抽象的な数を具体的な数1に書きかえることを,nに1を代入するといいます。2×1=2具体的な数2が出てきました。nに5を代入してみます。2×5=10さらにnに18を代入すると,2×18=36。nに適当な自然数を代入することで,次々と具体的な偶数が作られていきます。
中学以上の数学は,まさにこの抽象化,具体化を文字式を使いながら行っていきます。具体的にわからなければ抽象的な表現を,抽象的にわからなければ具体的な表現をと意識しながら進めると,意外に理解が進むかもしれません。
人類がこの数学という抽象的な表現方法を手に入れたことにより,自分たちの生活する環境を、もっと大きく宇宙全体を考えることができるようになりました。人類以外の生物には決してできないことです。そして,今や,物理学という,数学を表現手段とする学問で,宇宙の全てをたった一つの数式で表そうというすごいことを研究している人々もいます。
抽象化,おそるべし!具体化,たのしきかな!
成功体験の重要性
自己効力感(やればできるという感覚)を高める方法として、成功体験が重要であると言われています。
自己効力感は、社会的認知理論の中で使用される心理学用語の一つで、スタンフォード大学教授のアルバート・バンデューラ博士によって提唱されました。
きっかけは、博士がさまざまな恐怖症を克服した人たちにインタビューを行ったことでした。恐怖症を克服した人たちに、ある共通点を見つけたのです。それは恐怖症という極めて困難な病を克服することができたことから、
『自分は困難を克服できる』
『自分は現状を変えることができる』
と信じるようになれたというもの。このインタビューがきっかけとなり、その後の継続的な研究によって自己効力感を保持する人は、
『失敗』
『壁』
『困難』
『難問』
にぶつかっても、チャレンジする。比較的早く立ち直る傾向にあることが証明されました。
『頑張って勉強したらテストの点数が上がった。受験に合格した』
『部活動を頑張って練習したら、レギュラーになれた』
などの成功体験を経験した子は、高い目標でも頑張れる(モチベーションが高い)が、成功体験を経験できなかった子は、どうせ頑張ったって無駄だ(モチベーションが低い)となってしまうようです。
子どものころの成功体験がその後の人生を大きく変えることも少なくありません。
『鉄棒で逆上がりができた』
『補助輪なしで自転車に乗れた』
『1000ピースのパズルを完成させた』などの小さなことでも十分です。
ただし、その過程で『努力した』ということが大切です。根気強く物事に取り組むには、努力が報われるという体験が大事です。子どもの頃に、いろいろなことにチャレンジして、多くの成功体験を経験して欲しいと思います。
そういった観点からも、個別指導塾をさせていただいている立場として、受験の合否や成績UPの効果はものすごく大きいと考えています。