■近年の中学数学は無駄に問題文が長い■
◆私が学生の時は、PHSやガラケーが主流でした。iPhoneが登場してから徐々にスマホの人が増えていき、今やスマホじゃない人の方が少ない状況だと思います。中学校の定期テスト問題をチェックしました。とにかく問題文が長くなってきています。数学に会話文が登場しています。まずは会話文から問題の意味を掴まないといけません。今は、単純に公式を当てはめるだけでなく問題意味がわからないと解けない時代です。一昔前の定期テストとは、明らかに違ってきています。これからはさらに問題の長文化が加速していき、「読解力」が無いと問題が解けないことが「当たり前」の時代になっていくと思われます。
◆数学は問題文が長くて本当にいやですね、、、課題はこれなんですよ。文科省教育審議委員会が出した答申。『考えさせる』~とかいうたために、『国語』と同じになっています。大学入試共通試験も、数学の問いとは無関係なやりとりの会話が三行もある。これって「なんの意味もないじゃん」って。無理やりこじつけて長文にしている。こんなんは「数学」じゃありません。数学の真髄は一行問題です。
❖閻魔が笑えば赤門は開く❖伝説の東大入試問題
◎「円周率が、3.05より大きいことを証明せよ」
◎(1)一般角θに対して、sinθ、cosθの定義を述べよ。
◎(2)加法定理sin(α+β)=sinαcosβ+cosαsinβを証明せよ。
◆東京大教授「(第1問)では、加法定理を証明せよ」受験生「ぎゃあああああああああああああああ」それはおそらく、試験開始直後の一瞬の出来事だったに違いないと思われます。東京大学は、受験生のすべてを否定し、第1問でいきなり完璧な絶望を植えつけたのです。東大受験生であれば、仮に意識していなかったとしても受験勉強する過程で大抵の公式の証明方法が自然と身に付いているはずです。しかし、加法定理の証明は恐ろしい盲点です。意表をつかれて血の気が引いた受験生が多数いたであろうことは容易に推測できます。「公式は証明してから使うべき」というメッセージなのでしょうか。
◆教科書の内容すら身に付いていない内に難しい問題集を解いている受験生に対する警告なのでしょうか。周りが並の受験生だったならば、「どうせ他の受験生もできないだろう」などと思えたのかもしれませんが、ここは東京大学、最上位層の受験生ばかりです。他の受験生には超易問、自分には超難問。最上位層が1点を争う入試においてこれがどれほど絶望的なことなのでしょうか。全ては本質を見失い、教科書を疎かにしてきた自身の愚かさが招いた悲劇であったことでしょう。もっとも、終わってみれば出来は非常に悪かったらしいので(出来ていたのは2割?)、試験中に悲観する必要は全くなかったのですが。
◆本来、数学において証明が重要であるのは言うまでもありません。証明できない公式を使うということは、土台が不安定な橋を渡るような危険な行為です。一方で、受験は効率の良さが大事であり、いちいち厳密な証明を気にしていては受験勉強がはかどらないのも事実です。そのような効率重視の受験数学が蔓延することに危機感を感じた東大が、「学問としての数学」の軽視に対して一石を投じようとしたのかもしれません。たったの一度でも入試で出題されたとなれば、そのインパクトは絶大です。この年以降、受験生は公式や定理を証明込みで丁寧に学習せざるを得なくなりました。
◆花子ちゃん、太郎ちゃんのかけあい長文は、飽き飽きします。国語で読解力を試せ!数学に持ち込むな⋯って言いたくなります。
◎京都大学“史上最短“の入試問題「tan1°は有理数か。」⋯オシマイ!一行問題が数学的であり、何通りかの解き方もあり、難解です。センター試験では与えられた数式から答えを導き出すという出題形式が主体だったのに対し、共通テストでは、問題文を読みそこから自ら数式を作り出す思考力が試される問題が主体となっています。数学の知識だけでなく、「読解力」や「速読力」も高得点を取るための重要なポイントです。自宅で本を読む習慣をつけてくださいね。『本屋大賞』もらった小説なんかいいですよ。直木賞・芥川賞は、中学生には少し難しいかも。内容のあるマンガでもいいです。なにかに熱中して読む習慣をつけてくれたらいいですね。「読解力・速読」の育成のために。
◆意味を学ぶ姿勢、とっても大事ですね�『方程式は釣り合いの取れた天秤⚖』、『関数は入力と出力の自動販売機』そんな意味付け、味付けで数学を美味しく頂きたい。◆
アタマが論理的に考え出す!【数学コトバ】
★「ママ友」は「友」じゃない。★
◆話が巧い人たちは、これを実践していた。深沢さんが教える、アタマがどんどん勝手に論理的に考えだす方法です。数字や計算は一切出てきません。使うのは「数学コトバ」となる接続詞。これを使えば説明がうまくなり、相手を説得できます。あなたも日々知らずに数学的思考をしています。大人になったいまからでも数学を学べる方法はあります。勉強する必要はない。そのかわり、日常生活で使うコトバを変えなさい。いまからでも数学的な人物に変身できる方法です。教科書も参考書もいりません。もちろん数学教師もいりません。
◆五角形の面積を出すときにつかうコトバを思い出してください。三角形の面積は「底辺×高さ÷2」で求められる。どんな五角形も、3つの三角形に分けることができる。ゆえに、それら3つの面積を合計することで、五角形の面積を求めることができる。「これが数学である」これと同じことを日々の生活の中で行えば、あなたは数学を使っているということになるのではないでしょうか。日常生活で五角形の面積を求めるということではなく矛盾やムダのない論述をし誰もが100%納得できるように説明する(伝える)ことです。
◆子どもがいて、カレーの材料を買ってくるように伝えるとします。「カレーに必要な材料、適当に買ってきて」と言っても、もちろんよいわけですが、子どもは何を買えばよいか困ってしまうかもしれません。「適当に」と言いたくなるのをグッと我慢し、少し考えてから伝えてください。たとえばこんな感じです。必要なのは全部で、牛肉・ジャガイモ・ニンジン・タマネギ・ルー。しかも、冷蔵庫の中にはジャガイモ・ニンジン・タマネギが十分ある。ゆえに、必要なのは牛肉・ルーだけ。子どもは納得し、安心して買い物ができるでしょう。すでに冷蔵庫にあるものを買ってくるというムダも生じません。五角形の論述の応用です。当たり前の言い換えだと言われればそれまでですが、これも立派な数学の活用ではないでしょうか。「普段からちゃんと考えて伝えましょう」という事例です。「ちゃんと考えて伝える」ことは論理コトバ(数学コトバ)を使えば簡単にできるようになるのです。 【引用: ビジネス数学の専門家: 深沢先生】
「ママ友」は「友」じゃない。「勇気の処方箋」
■付き合いがつらいときの接し方。子どもの保育園・小学校・中学校を通じて知り合う「ママ友」。子どものことを考えてお付き合いが必要なのはわかっていても、年齢差があり趣味も違うと、会っているのがつらいというケースもあります。『…それってアドラー的にどうなのよ~』
アドラー心理学は、認知の歪みがある人や、感情と言動に不一致がある人に対して有効であり、周囲の同調圧力が煩わしければ、いっそのこと関係性を切り、自分が本当に歩みたい人生を、主体性に積極的に生きていくことを推奨しています。
■“友”という言葉で惑わされるけれど「友だち」ではなく、仕事の同僚や取引先の人と思って接すれば気持ちも軽くなるのではとのアドバイス。「ママ友」との付き合いがイヤだからと、子どもが世界を広げるのを阻むことだけはないようにと伝えています。「ママ友」っていう言葉に惑わされがちですが、「友」という漢字が入っているとはいえ、自分一人の意志で選んだわけではない繋がりだったりします。それは会社の同僚とか、取引先とかと条件は同じです。「あなたと趣味が合いそうだから同僚になろうよ!」と言って同僚になるわけではないですね。
■仕事をしていく中で、いろんな困難に一緒に立ち向かったり、力を合わせて目標に取り組んだりすると、強い絆が生まれる。お子さんを通した「ママ友」との繋がりも、「子どもについての悩み」を相談しあったり、「行事に一緒に取り組んだり」ということで深くなることもあるかもしれません。誰か1人が「風邪ひいた」と言えば、みんなが「大丈夫?早く治ってね!」とスタンプやお見舞いコメントを送る。グループなので、愚痴を吐いたり逆に自慢したり、常に誰かがLINEで呟いている状態。それに対して、みんな同様毎回リアクションしているのですごく疲れます。ファミレスでママ友みんなでお茶をする時も、出席しないと取り残される気がしていつも合わせて参加しています。ママ友付き合い、本当に疲れます(笑)
★自分と趣味の合わない人たちであろうと、ちょっと肩の力を抜いてうまくやっていくことはできるのではないでしょうか。すぐそばにいる味方を大切にしてくださいね。
▼【嘘から出た真】「正しくない式」と「正しくない式」から「正しい式」が生まれることがある。
■『高校数学の重さ』=「中学数学の5倍」■
なぜ、高校数学でわからなくなるのか?
▼「なぜ、高校に入って数学で落ちこぼれてしまうのか?」ということについてです。そうなってしまった人は、日本に何百万人といると思います。中学まで数学が得意だったのに、高校で苦手になってしまうという人もけっこういるはずです。高校数学は、具体例がなくて定義から記されているものが多いです。高校数学の教科書を思い出してください。新しい概念もどんどん出てきます。わからない記号とか、わからない式の羅列が目に入った時点で、「え、何いってるの?」となって、それを考えているうちに置いていかれる。そういう人は多いと思います。
▼小学校の算数や中学の数学までは「Aくんは時速何kmで歩いて……」というような現実と結びついていることが多いのです。中学までは具体的にイメージできるものが多いです。問題文を読めば解き方が直感的にわかる、つまり足し算、引き算、かけ算、割り算をすればいいか判断できるものが多いです。図形でも、見たことがある形でした。中学数学はおなじみの正方形とか長方形、台形、平行四辺形、円とかをもうちょっと詳しくやっていきましょうみたいな感じになっています。「中学までは数学ができた」という点でいえば、中学までの数学は計算すればできたとか、問題をその通り解けばできた気がします。中学数学でも、文字式や関数のグラフが出てきましたが、まだ問題文を読めば何をすればよいかがわかりました。
▼高校数学になると、だんだん「数学独特な言い回しの問題」や「思考力を問われる問題」が多くなってきます。中学数学あたりまでは、教科書に載っている例題とテストの問題の差はそれほどなかったのですが、高校数学のテストはもうちんぷんかんぷん。とくに教科書の例題と大学入試レベルの差はかなりあります。高校数学の重さは、感覚的に「中学数学の5倍」です。「中学数学」と「高校数学」はちがうものというのはドロップアウトした時点でなんとなく感じて、数学に対する自信が折られます。そのショックも大きいと思います。「できる」と思ってたことが、「できない」ということを自覚するはずです。
▼原因の1つは、同じ3年間でも高校数学は学習する量が多く、質も高く、スピードも速くなることです。量でいうと高校数学の教科書の厚さは中学数学の2~3倍あります。教科書の1ページに書かれている内容が高度なのでスラスラと読み進められません。感覚的な重さでいえば高校数学は中学数学の5倍くらいかもしれません。中学までの数学が得意だと思っている生徒のなかには、勉強しなくてもできると思っていた生徒たちが一定数います。そういう生徒は、授業を聞いているだけで理解できていた。何をすればよいのかストレートにはわからない問題に取り組むという経験がなかったから、高校数学になって何が起こっているのかわからないまま「おかしいな!?」という感じになっていくといえそうです。負のスパイラルに陥ってしまいます。
▼中学数学の5倍くらいのイメージで臨んだほうが、メンタル的にはいいかもしれないです。数学で落ちこぼれる負のスパイラルとして、「できない自分が悪い」と思いがちということもあると思います。「がんばっているのにできない」という生徒は、やはりやり方が悪いのでしょうか?努力する方向がちがうのでしょうか?「問題集をこれだけ解いたのにできるようになりません」という生徒がいます。「この公式を使いなさい」と示されている問題を10回解いたとしても、「こうしなさい」といわれた問題しか当然解けないわけです。問題自体が何をたずねているのかを理解しようとする練習を積めば、ほかの問題でも解けるようになります。しかし、「問題がたずねていること」をつかむ前に、やり方自体を覚えようとしてしまう生徒が多いのです。
▼わからないけれど解法を暗記している場合、言い回しが変わったときに、「結局、何を聞かれているのだろう?」という「問題の背景」を理解しようとせず、中学までの取り組み方のまま、条件反射的に取り組もうとしてしまうためです。「この問題って、こういうことを習ったけれど、それはわかっているかな?」とか、「こういう意味でとらえられているかな?」ということを確認するのを「背景」といって伝えています。「この問題は何がいいたいんだろう?」ということをつねに意識しておくことです。「問題の背景」とは、いわば「この問題は、こういうことを聞きたいから、こういう出し方をしている」というようなことです。「問題が出される背景」までを考える習慣がない生徒は、高校数学を解くのは厳しいと思います。「問題の背景」を理解すると、だんだん生徒も「この問題は、そういうことを聞いているのか!」とか、「この問題は、こんなふうに聞かれてそうだな」とか、「そういうところがキモなんだな!」とつかめてくるようになります。
▼新しい問題でも自分で解くための切り口を見つけられるようになる。問題の見方が変わってきます。「式(抽象性が高い)」と「グラフの図示(具体性)」との関わりや、問題のとらえ方の引き出しが増えてくるため、浅い理解から深い理解に変化していくような感じです。問題文の中にヒントがちりばめられているというのも見えてきます。「問題の背景」がわかれば、超天才でなくても高校数学を解けるということです。「問題の背景」をつかんで解く練習を繰り返す。「そういうことなんだ!」とわかったら、そこから1人でどんどん取り組めるようになると思います。
★【入試の極意】★入試算数や入試数学で最も大事なことは「問題は解けるように作られてある」という意識を持って解くことにあると思う。そういう意味で出題ミスは絶対あってはならないこと。
ナンバーセンス『数感覚(小学生・中学生)』
◆数感覚はナンバーセンスといわれます。この数感覚について、NCTM( National Council of Teachers of Mathematics:全米数学教師協議会)では、『数の関係の直観には、数感覚が必要である。』とあり、数感覚の重要性が述べられています。例えば①数の意味をよく理解している。②数の間の様々な関係を発達させている。③数の相対的な大きさをわかっている。④数に関する演算の相対的な効果をわかっている。などと言われています。
◆それぞれの意味においても、発達段階に応じた違いがあると思います。例えば、「数の意味」といわれても、5歳にとっての数の意味は、5という数唱が、何か「5つのもの」が存在していることを指すことや、「5番目という順序」を表すことなどの意味でしょうし、高学年になってくると「5は奇数である」という意味になってくるのだと思います。数感覚は小さいうちから、ずっと育てていかなければならないものだと考えられます。また「演算」も大切だと思います。
◆小さい子にとって、大きな数といえば、なぜか「117」です。きっと、数唱がもとになっているのでしょう。つまり、1から100まで数える経験が、「100って大変…」という経験としてあり、「大きい数=100」になるのだと思います。3年生になると、「万」や「億」をならいます。学習指導要領・算数編を見ると、「万の単位の指導に際しては、1万という数の大きさについて、実感的にとらえられるようにすることが大切である。」と書かれています。1万を「1000が10個集まった大きさ」「9999より1大きい」「5000と5000」「100の100倍」など、多面的な見方ができるようにする、とあります。さらに「数の大きさについての感覚を豊かにすることが大切」と述べられています。
◆江森先生の「数感覚」についての見方です。「センスは感覚と訳されるけど、センス=感覚ではない。」と述べておられます。「計算のセンスがよい」とは言っても、「計算の感覚がよい」とはあまり言いません。「感覚は伝えられないけど、センスは伝えられる」とも述べておられます。
ナンバーセンスについて、次の3つにまとめています。
(1)ナンバーセンスの瞬発力
瞬間的な場面でナンバーセンスが働く能力
(2)ナンバーセンスの創造力
同一の観点からストラテジー〔目的を達成するための視野と思考〕を発展することや
他の観点からもストラテジーを構成する能力
(3)ナンバーセンスの適応力
数や式に関する新しい知識をすぐに定着させ、使ったり利用できる能力
「小町算」と呼ばれるような問題です。
「□の中に、加減乗除の記号(+−×÷)を入れて、数式を完成させよ。
① 9□9□9□9=2
② (9□9□9)□9=3
③ (9□9□9)□9=10
◆これをぱっとできる力、これはまさに「ナンバーセンスの瞬発力」ではないでしょうか。
これを考えても、「数を分解・合成できる力」は大切だと思います。(10を2と8と見ることができる)(8=-7+15に分解できる)
「数に対する感覚については、①位取り記数法、数の分解・合成、数の大小・相等などの感覚、②数の相対的な大きさの感覚、③計算の性質、結果を概数で見積もる感覚、④日常用いられる数の感覚などがあげられる。このような感覚を育てるためには、見積もりの重視や、日常生活のなかで数の感覚を育成することの重要性が指摘されている。」とあります。NCTMで述べられている内容と似ています。
◆大事なことは、その育成です。ちょっとした時間を使って数感覚の育成を図りたいですし、家庭の中でもその育成を図ることが大切だと思います。日常生活の中で数感覚を育成するためには、買い物を実際にさせることも大切なことだと思います。これ…効果抜群です!!「勉強しなさい!」ではなく、「一緒に勉強しよう!」使えますよ、これ!!『引用*『算数教育指導用語辞典』
■【高校生なら文字式で証明】小中だったら同じ形の問題5問ほどして、『すごくね!どれでも、こうなるんだぜ!』で止めます。
【通えば通うほど、おバカになる塾】
【子どもに通わせたくない塾とは】
▼「子どもに考えさせない」ような指導、「奴隷のような価値観を植え付ける」ような指導をする塾です。絶対に通わせたくないです。やたらめったら宿題が多い。指導がスパルタ、いつも誰かが怒られている。成績順で身分がちがうみたいな雰囲気がある。「作業の指示が多い」のが特徴です。勉強ではなく「作業」、しかも「苦行」をさせます。
▼大量の宿題が指示待ちの子どもをつくります。宿題をはじめとした大量の作業指示は子どもの能力をどんどん低下させます。学校や塾の先生が宿題というノルマを与えて子どもの勉強を管理してくれたら、親としては安心かもしれません。それが勉強になっているか、身に着いているか、と言えば全く別の話です。作業が多いほど、子どもは自分で考えることを諦めるようになります。やりきれないノルマを「やれ」と言われたら、中身の質よりも、ただ終わらせることを優先してしまうものです。大人が仕事をする時だってそうでしょう。大量の宿題をノルマにするほど、やがて子どもは自分の頭で考えることを諦めてしまいます。
▼塾の教材や宿題を大量に押し付け、子どもが落ち着いて取り組む余地を与えない。そういう指導は子どもの「考える力」を奪い続けます。それはもう勉強とは呼べません。教育改革で重視され続けているのは「自分の頭で考える」人材の育成です。指示待ちの人材は誰も求めてはいません。自分の頭で考えることをさせなければ、学年があるほど子どもの成績は落ちてゆきます。大量の宿題が出され、毎日のように教室に呼び出される。そういう塾で勉強に疲れてしまった親子のお話しです。
▼体験に来られた保護者様のお話です。「もう、この子に『ちゃんと宿題しなさい』と言うのに疲れてしまいました。そのたびに『ちゃんとやってるって!』と反論されて、いつもケンカになるんです。この子も辛いと思います。」
「今の塾の先生から言われたんです。大人が見ている目の前でたくさんやらせて、それでもすぐ忘れてしまうので、次の日に2周目をやらせて、そしてテスト前に3周目をやらせる。それくらいやらせないと、この子は平均点にも届かない。そうに言われました。それで毎日のように塾へ行き、夜には大量のプリントを抱えて帰ってきています。でも成績は下がってきました。数学は少しでも難しくなると、もうダメみたいで。学校の勉強はどんどん難しくなってきました。先回のテストの結果を見て、二人でがっかりしました。もう疲れてしまいました。」なんとも凄まじいお話です。
★【サクシードの生徒さんたちを見ていて感じること】
★常々、たくさん解こう・としなくていい。プリント枚数が少なくてもいい。ゆっくり正確に、丁寧に、ミス無くやってちょーだい。と伝えています。不思議ですね。やがて、20枚、30枚⋯50枚と、持ち帰るプリント枚数が増えていきます。急がせるわけでもないのに。「早く仕上げろ」とか、「スピードが無い」とかの指示は最悪の結果を招きます。もちろん、宿題など出したことはありません。
★小学生時代は、自然と触れ合い、のんびりと過ごす時間です。お受験などで、無駄なストレスを与えてはいけないと思います。遊べるのは、小学生時代+大学・教養課程だけです。
★大学1.2年は、恋愛でも、麻雀でも、ゲームびたりでも~なんでも有りで良いと思います。警察のごやっかいになること以外なら。
■人の一生は…あとは「勉強」と「仕事」だけになります。イヤでも、このレールから降りることはできないのですから。
【エイプリルフール】何が真で何が偽なのか《対偶》をもとに判断することをオススメしたい。
元の命題と対偶の命題は真偽が一致することが知られている。
数学の力が試される1日になりそうだ(^^;)
「pならばq」の対偶は「qでないならばpでない」